昭和45年10月27日 朝の御理解
御神訓 一、「悪いことを言うて待つなよ。先を楽しめ。」
信心をさして貰うて、おかげを段々受けて参りますと、そこに生まれて来る体験、ね、初めてそこに分からせて貰うのが、私はここの御理解だと思います。やはり信心の難儀な問題、難儀な事、ね、いわば困った事、そういう様な難儀な問題を、お取次を頂いてお願いをする。そこに、いわゆるおかげを受ける。そのおかげを受ける頃には、信心が少し分かっておる。ですからまあ。
結論を先に言うとどういう事になるかと云うと、それこそその難儀が大きければ大きいだけ、苦しいと思う事が大きければ大きいだけ、これはおかげも又大きいぞと云うことが分かる。そこのところを私どもが、信心が出来ておりませんと悪い事は悪い事にしてしまう。困った事は困った事にしてしまう。どうして自分だけがこんなに不幸せであろうかとか、考えただけでも先はどうなるであろうかとお先が真っ暗になる。
それが悪いことを言うて待つなよ。実を言うたら悪いことじゃないのだから、楽しまなきゃならんのだと。成程肉眼的見方、人間心を以ってするとそれは大変困った事であり、難儀な事である。けれどもその事がです、大きなおかげの元になるのだと云うことが分かる。それが段々体験付けられてくる訳です。その事は難儀な問題であっても、さあここで一修行させて頂いて、これがおかげ頂く頃には、ね、それに伴うところのおかげと云うものは、それこそ輝かしいものに感じられて来るようになる。
「難はみかげ」とか「難あって喜べ」と云う風に教えて下さることが分かって来る。ね、だから、ここは本当の事が段々信心に依って分かって来ることに依ってです、ね、ほんとに悪い事を言うて待つなとこう仰るが、悪い事は言わんで済む、思わんで済、むしろ先を有難いと思い、後は先を楽しませて貰えれる、私はそういう状態に段々ならして頂くと云うことが、信心が段々分かって行きよると云うことだとこう思うです。ところが人間と云うものは、何かちょっと困った事があると。
すぐ最悪な場合を連想する、考える。例えば子供を使いに出します。まあ帰りが遅いと致しますと、事故にでも遭ってどんおらんじゃろうかとこう思うたり、ね、何か起こっておるのじゃなかろうかと思うてすぐその悪い事を連想する。ね、その悪い事をそういう事を思うことが、ね、悪い事を思うことに依って、悪い事になっていくと云う、これは又別の話に持って行かなければなりませんけれども、悪い事を考えておると、悪い事が起こって来ると、云った様な結果が生まれてくる。
先を楽しめと仰る。先を楽しませて頂くと云う、おかげを頂かせて貰うとね、それは、いわゆる楽しい事、云うなら有難いことが起きて来るのである。だからそこんところを、悪い事を思うことと楽しいと思うこと、有難いこと思うことは、理屈の上から云うても理論の上から云うても、その様に違うんだと云うことが分かっても、そこんところが人間です、ね。やはり悪い事ばかりを思うてしまう。そこでね、そこで私は思うのに、その前にあります「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」とありますね。
その前に。用心は前から倒れぬうちの杖ぞと。如何に信心が、ね、常日頃しっかり出来て居らなければならんかと云うことが分かります。ね、親も心配で心配でたまらん、不安で不安でたまらん。だから信心して居るのだと。なるほど初めは皆さんそうですよね。いわゆるだからそこのところを助けて頂きたいと云うことがもう信心、みんなそうです。ね、それも云うならば半信半疑、まあ一生懸命お参りをして居るが。
一生懸命お縋りをしておるが、おかげになるじゃろうかと、先生はああ言うて下さるけれども不安でたまらない。それがまあ普通、いわゆる信心のいわば浅い時だと思うですね。そこが段々おかげを頂いて参りまして、体験が生まれて参りますとですね、その事を以って一段と磨かせて貰う。そのことを以って一段と改まらせて貰う。心に難儀を感ずれば感ずる程、いわゆる神様へ向かう精進する心と云うものが、その様に変化して来る。ね、それが例えば大きな問題であれば問題である程。
難儀のその様相と云うものが深刻であれば深刻である程、ね、信心さして頂く者はそこんところが出来て行かなければならん。またそれが事実の上にもま、そういう迫真と云うですかね、真に迫るというか、そういう実感を以って神様へ打ち向こうていく。ね、改まることに、又は本気でその事を通して磨いて行くと云う心。ね、その事だけでも実を云うたら有難いのである。自分がね、いよいよ清められていくというのであるから。ところが、不思議なことにその信心をさして頂いて本気で修行が出来る。
本気で改まる本気でその事を通して磨くとか改まるとか云う事になって参りますとです、自ずと生まれて来るのがね、先を楽しめと。はあここん所を一修行通り抜けたら神様はどの様なおかげを下さるだろうかと云うように楽しみすらが生まれて来る。又はそのこの御神訓のその今度は次にある、ね、「やれ痛やと云う心で有難し、今御影をという心になれよ」と仰る。ような心が生まれて来る。その事は確かに苦しい。
その事は確かに難儀であるけれども。有難し今御影をと云う心になれよと。ね、その事に依ってまあ云うならば、霊的な借金払いが出来て居るとでも申しましょうかね、いわゆるめぐりです。この様にしてめぐりのお取り払いを頂いて居るという実感。痛いことは痛いけれども有難い、と云うような心が生まれて来る、そういう心にならされて来る。そこにはどうしても用心は前から倒れるうちの杖と仰る。
ほんとに神様に縋ってさえ居ればと云う体験が次々生まれて来なければいけん。又生まれて来る。ね、私は神を、倒れぬうちの杖ぞと仰るのはそういう事だと思う。神様に縋って居れば、ね、いわゆる先を楽しむことが出来る。その事は苦しいけれども先を楽しむことが出来る。段々おかげを頂いて参りますと、なるほど信心をして居ってもやっぱり様々なことは起きて来る。
それは信心のある者にもない者にもおんなじこと。昨日、ある方がある方と云うのはあのここの庭をされました梅里さんが、なんかあちらは行橋か、あちらのまあ云うなら沢山のお金持ちさんらしい。庭を四回か五回か造り直した。随分お金をかけたけれどどうも自分の気に入る庭が出来ない。たまたま梅里先生のことを聞かれてからお願いをした。材料はおんなじ材料である。
けれども見違えるように庭が立派になったと。まあほんとに朝晩眺めさせて貰うその庭がよくなったから嬉しゅうてこたえんと云った様な、それで私の造って居っておる庭を二、三、あの見せて上げましょうと云うので、ここにお庭を見に見えられたわけなんです。まあいろいろ庭のお話から信心のよもやま話にならして頂いて、私は何様も拝んだ事がない、いわゆる無信仰だとこう云うのである。
その方が言われるですねえ。仏様でも神様でも結局、信心で云うおかげと云う言葉を使うならば、おかげはもう誰んでもやってあるとじゃろうと思いますとこう言われる。だからそうどころじゃありません。これはもう誰にでもやってあるんですよと。み教えにも、ね、信心のある者にも無い者にも天地の神は平等におかげが授けてあると仰るのですから。誰にでもしかもそれが降るようにあっておるんですよとこう。
丁度雨がこう降っておる。降るようにやってあるんだと。これは信心があってもなかっても同じなんだ。けれどもそれをね、受け止める心が違うのだと。おかげは一応にやってあるんだと。おかげは平等にやってあるんだと。けれどもそれを受け止める受け物が違うのだ。受け心が違うのだと云うような事を申しました。そしたら梅里先生があの丁度お茶を持って来ました。それから玉露を入れて来て先生は大変お茶が好きですから、羊羹をお茶菓子に出しとりました。
ここにお庭に見える造りに来て頂く時に、久富さんが十日間ですかね、お茶の御用をされた。そん時にお茶も度々違ったが、お茶受けも度々違った。後で聞かせて頂いた話なんですけれどもと云うて話されるのに、ね、例えばここに玉露のお茶がある。ああここに一つでも羊羹が欲しいなと云う時にはここの場合にはちゃんと羊羹があるとですよ。ね、例えばここの庭を造る時に私がここに大きなつつじを四、五本集めて下さいと言うて帰っとったら、その次に来た時にはあのつつじが。
あの大きなつつじが集まって来ておった。まあ何処からか買いなさったばいのと思いよった。つつじが要ると云うわけでも何でもない、信者にそれを振り出される訳でもないのに、話を聞いてみたら熊本から集まって来とった。善導寺から集まって来ておったと、あの大きなつつじが私がここに来るまでに集まっとったですよ。と云う様なここでの先生が見たり聞いたりされた事を話して居られました。ね、
その様にそんならばそれは私の上にだけそういうおかげがあるのではない。今貴方が言われる様におかげは誰にでも渡してある。平等なんだ。ね、それを受けて行くと云うその受け物が違うのだと。と、云う様な私の話をまたこう裏付けする様に梅里先生がそんな話をして居られました。そんなもんかなあちちから話しておられた。いわゆるその方が言うて居られる信心をしとろうがしとるまいが。神様は一応におかげは誰でん下さってあるんだと云う只思い方がです、ね。
少し変わってきた訳です。ね、こりゃなるほど受け物が大事だなあと云う事をまあ感じられた様でした。そこまでは、ね、そこが分かれば信心しなければ居られないことになって来るんですけれども。ね、ですからそういう例えば、その体験と云うか、を、積んで参ります。それには今日「悪い事を言うて待つなよ、先を楽しめ」これは楽天的な人と悲観的な人があります。どちらがいいとは言われません。ね、
只楽天的と云うだけではいけません。いわゆるその神様を信じての、ね、楽天的と云うのは、どうとかなろう、それをえらいこうのんきにして居ると云う訳ですね。まあ心配せんでいい事でもそれを非常に心配をする。いわゆる取り越し苦労をする。しかもそれが悲観的になって来る。ね、だからそれはその人の性格ですからまあ仕方が無いと致しましても、信心をさせて頂いて確信されることはですね、神様は一応に平等におかげを授けて下さってあると、ね。
そのおかげを自分の受け物と云うか自分の心次第でおかげにしていけれると云うことが分かって来る。そこでならどういう心の状態になたらよいかと云う事になると、これは心配したり悲観したりしてはいけないと、云うことが分かって、なら心配せんで済む為に悲観せんで済む為に信心をする、修行をするお参りをする御教えを頂く。来るまではあの様に心配であったのが、お取次を願わせて頂いたら心配が薄らいだ、又心配が無くなった。ね、そういう心の状態がおかげを受けることになって来る。
同時に私は悪い事を言うて待つなよとこう云うのはね、いわゆる悪い事を言わんで済むおかげ。これはまあ、私がここ二十何年間の信心体験を通してから思わせて頂くことは、困ったとか難儀と云うまあ感じるからやっぱ信心もしゃんとして来る。ね、もちろんその事もおかげになって来ると同時に、その次に現れて来るいわばおかげの世界が広まって来ると云うか、云うならおかげの受け物が堅実なものと云うか、またはおかげの受け物が大きくなると云うか、そういう奥のおかげだけはもう絶対のもの。
これは大地を叩く程に間違いの無いことであると云う体験。ね、その事はまあ右左は別として、ね、右と思うことが左になる事になるかも知れんけれどもです、それがほんとにおかげを頂ける元になると云うことだけははっきりしてくる。例えば病気をする、ね、まあ不孝にしてその病気が治らずにまあ死んでしもうたとする。けれどもその事に依って神様へ打ち向かわせて頂いたその信心と云うものははっきり残る。
そしてそこのところを境にです、信心が一段と進むと云うか、おかげの受け物と云うのが大きくなって行く事だけは、これはもう、これは大地を叩く程しに間違いが無い。そこんところが信心が薄かったり、只その事だけになって居りますと、これだけ縋って居ったのに、これだけ信心したのにこういう結果になったと云うて、それで信心がおしまいになると云う人すらがある。ね、
困ったことが起きて来る。だからそれはね、おかげですよと、まあ言えれる信心。又それをほんとにおかげと実感される信心。それを困ったことだと考えることがです、私は悪い事を言うて居ると云うことになる。又悪い事を待つ様な結果になる。体験を積んで、ね、自分の体験から云うてもその事がこの様なおかげになったと云う体験を持つと、その事がおかげですよと言えるようになる。その事がおかげですよと云う心が、私は先を楽しむ心だとこう思う。
ですからここのところはね、如何に神様が悪い事を言うて待つなよと言われても心配せずには居られないと云うのが、信心の無い時であり薄い時である。だからここは随分体験を積んで行かなければならんと云うことが分かりますがです、ね、そこんところをお道の信心をさせて頂いて居るとね、「先生、こういう困った難儀な問題が起きました」と言われる時に、先生がそこのところを「それはおかげですよ」と言われる。
自分にはおかげと思われんけれども、おかげですよと言われるから、はあ先生がああ言うて下さるからと思うから、その心配が楽になって来る、心配が薄らいで来る。ね、それが私はお取次を頂くことの有難さだとこう思うがです、そこのところが繰り返されて行く時にです、悪い事を言うて待たんで済む信心。これは難儀なことだ、困った事だと思うことはいわゆる悪い事を言うて待つことになる。
それを例えばおかげとして頂く。それはおかげですよとここん所は体験を積まなければなかなか言えないところ。ね、それがおかげだ、おかげですよと言えれる事が先を楽しむと云うことになる。ね、悪い事を云うて待つなよ先を楽しめと。お先が真っ暗先はどうなろるだろうかと、と云う様な思い方は、ほんとに先がどうなるだろうかと云う様な事になり、お先がほんとに真っ暗いことが起きて来る。馬鹿になって来る。
ね、それを極端に表現して居られますのが、初代の桂先生がある問題で御神前に出て居られたら、急に修行生の方を呼ばれてね、墨と硯を持って来いと言うてあの御神前からおらばれた。紙と硯を持って行ったらその場であのお書きになったと云う月入らば、また輝ける日の出かなというまあこれは俳句ですよねえ。”月入らば、また輝ける日の出かな”そういう見方なんです。しかもそれがもう「絶対の理」なんです。
どんなに真っ暗い、目の前が真っ暗になるような事が起こってもです、ね、その事をね、おかげとして受けて行けるというその事自体はそれは悲しいことであったり困った事かも知れんけれどもね、その次には必ず日の出があるのだと云うのである。して見るとそこの所を通らせて頂くことに依って、次の日の出を拝むことが出来ると云うのである。それは楽しい。ね、そこのところをです、なら暗くなることもまたおかげであると云うのがです、「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」と。
杖を持って居る。神様と云う絶対のものを頂いて居る。心に光がある。どんなに真っ暗いと云うても月が入っても、ね、暗い思いをせんで済むと云うのが信心さして頂く者にだけ与えられた私は恩典と申しましょうかねえ、おかげだと私は思う。ね、どの様な場合でもです、それを困った事と、悪い事とせずに、ね、それがおかげですよと云うことは、それがおかげの元になると云うことだと思うです。
そりゃあおかげですよと、それはおかげの元になる。だからおかげの元に勿論だからしていかなければならない。それをおかげの元にして行くと云うことはです、大地を叩く程に間違いが無いことだと。月が入ったら日の出になることはもう絶対のものである様なものなんです。ね、そういう、なら目の前に輝かしいおかげが目の前に来て居ってもです、それを暗い事から暗い事へ、悪い事から悪い事を思うて参りますとです、その暗い所ばかりを追うて行かなければならない。
日の出を待ちきらん結果になって終わるのです。私はほんとに折角信心させて頂くならば、何と云うですかねえ、ほんとに悪い事を言わんで済む、悪い事を言うて待たんで済む信心、まあ云うならそれを場合にはどっこいと云う気で受けて行くと言いましょうかねえ、も少しそれがおかげになって参りますと、そんなに力まなくてもどっこいと力まなくてもね、おかげですよとこう言えれる、おかげだとこう思えれる信心。
なるほど叩かれれば痛いけれども、ね、その先にあるところの輝かしいおかげを信じて居る、知って居る、体験を通して知っておる。だから今はこんなに苦しい思いを確かにして居るけれどもです、ここば通り越えたら神様どういうおかげを下さるであろうかと、その苦しい事が大きければ大きいだけ次の輝かしいおかげを楽しませて貰える事が出来る、実感として。先を楽しめとこう仰る。ね、ですから、楽天的なと云うのとは本質的に違ってまいりますね。確信に基づいてからのことですから。
先を楽しめと。先を楽しませて頂く信心。その次に「やれ痛や、と云う心で有難し、今御影をと云う心になれよ」と、なるほどその事はやれ痛やである。痛いけれどもです、今こそ御影を頂いて居るんだと云う。今こそおかげを頂いて居るんだと云う実感が生まれてくるときにです、ね、痛いけれども有難いとお礼を申し上げなければ居られない。痛いけれども有難い。そこでその痛い時にです、有難いと思えれるのが修行です。
痛い、だからこそ普通出来ん信心が出来ております。痛いからこそ普通改まれないところが改められております、磨かれておりますと云うこと。その事を通して改まり磨かせて貰うから、ね、その難儀な問題その事は難儀な問題だけども、その事を通して色々分からせて貰う、磨かせてもらう、改まらせて貰うから有難いのである。今、御影をと云う心に、今こそ信心が身に付いて居る時だと思うから。
今御影をと云う心になる。そういう心の状態で私は難儀は突破して行くものだと思うですね。そしてその見事に突破さして頂いたその先にです、輝かしい日の出のあることを私どもは確信できれる信心が出来たら、ね、そこにはもう既に難儀と云うのはないことになる。この輝かしいところに出る事の為の過程に過ぎないと云うことになる。ひっくるめてやはりだからそれもおかげだと云うことになる。この世に難儀と云うものは無い、と云うことにまでなって来る訳ですね。そういう心の状態、ね、
一切をおかげとして頂けれる様な心の状態こそです、降る様にやっておるところのおかげ、神様が平等におかげを下さってあるところのそのおかげをです、おかげをおかげとしてびっちり、がっちりとそれを受け止めて行く心の状態と云うものは、そういう状態だと私は思う。折角信心をさして頂くのですから、ね、そこんところを悪い事にせず、ね、おかげとして頂かせて貰う、ね、おかげと思えれる。
はあ、これに依ってまた一修行できるぞと云う元気な心、それをどっこいと云う心だとこう思うですね。この事に依って一段また信心が進ませて頂くことを思わせて頂くだけで、心の中にですね、次のおかげが、それこそ心が躍動して来る。それは輝かしい次のおかげを楽しませて頂くからである。して見ると私ども信心さして頂く者はね、何時もが楽しいと云うことになる。
何時も楽しい思いをすることが出来ると云うことになる。何時も先を楽しむことが出来るのである。ね、何時も先を楽しませて頂けれるところまで、信心を進めて行きたい、極めて行きたい。まあ今申します、おかげでと、おかげですよと言えたり、いよいよの時どっこいとそれを受けて立たれるところの信心は、やはり「用心は前から倒れぬうちの杖ぞ」と言われる様なところをしっかり神様を間違いのない神様を頂いて、しっかり信心の稽古をさして頂いておかなければならないと云うことになります。
先を楽しませて貰う。だから平穏無事と云うことだけがおかげではない。それこそ目の前が真っ暗になる様なことを聞いたり見たりすることもです、ね、自分の信心をいわばテストしてみる一つの機会でもある。そして、そこから先に生まれて来る、先を楽しませて貰えれる信心。これは信心の無い人達が聞いたらまあ云うならびっくりするかも知れませんよねえ。この様な問題がある時にその事を心の底にはこういう問題を受け抜かせて頂いたら、先がどういう有難い事になってくるじゃろうかと。
楽しみなどと言うたらちょっとまあね、可笑しい様に思うかも知れませんよ。みんな叩かれてにこにこ笑っていると云うのですから、まるきり変質者の様に見えるでしょう。けれども私はそこん所をその苦しい顔で受けるよりも、にこにこして受けて行けれる方がどの位有難いか分からない。有難い勿体ないで受けて行ける方がどれ位人間が幸せであるか分からない。そういう受け方、そういう道を私は教えて頂くのが信心だと思うですね。悪い事を言うて待つなよ、先を楽しめと仰る。ね、先を楽しませて頂く信心を頂きたい。
どうぞ。